② 出会い

   熊井啓監督は自著「映画と深い河」のなかで、1953年(昭和28年)5月に映画を志して上京し、関川秀雄監督の『ひろしま』の助監督に就いた後、つぎの仕事を求めて劇団民芸で映画のプロデューサーをしている大塚和氏に会っていただくことになった、と書かれている。熊井さんは松本の学生時代に、父が発行していた雑誌「映画手帖」の愛読者だった。一方父は、この2年前の1951年から民芸の映画プロデューサーとして、『三太と花荻先生』(大黒東洋士脚本、鈴木英夫監督)、『ある夜の出来事』(横光利一原作、稲垣浩脚本、島耕二監督)、『母のない子と子のない母と』(壺井栄原作、若杉光夫監督)、『愛の砂丘』(木下恵介脚本=1953年度ブルーリボン脚本賞、青柳信雄監督)などを、宇野重吉、滝沢修、北林谷栄ら劇団民芸の俳優総出演で精力的に創り始めていた。

   ふたりの出会いについて、熊井さんは同じく「映画と深い河」のなかで次のように書かれている。

――大塚さんは三十八歳、全身に精気がみなぎっている感じだった。私は二十三歳、ほんの駆け出しの助監督だったが、大塚さんは長時間、話を聞いてくださり、私の書いたシナリオを読んで上げるから、家に届けるようにと言われた。翌日、私ははじめて世田谷区代沢の大塚さん宅を訪れた。ドアを開けると、少年の汎君と公子夫人とが姿を現した。私はシナリオの入った紙包みを夫人に渡し、ホッとして外へ出ると、やわらかな秋の日ざしがコスモスの咲く広い庭いっぱいに散っていた。こうして、大塚家の皆さんとのお付き合いが始まったのだった。――

   ぼくは昭和19年生れだからこのころ9歳だ。ふしぎなもので、熊井さんの文章を読んでいるとなんとなく、痩せ型で背が高く大きな目が印象的なそのときの熊井さんの面影が目に浮かぶようだが、実際に記憶にあるわけではない。我が家へ見えた熊井さんの最初の記憶は、それから7,8年経った頃かと思う。笑うととても人懐こい顔になるのが印象的だった。

  このとき熊井さんが持ってこられたシナリオは百姓一揆の話で、父も、また宇野重吉さんも気に入ったが、予算が大変かかるので映画化はされなかったそうだ。しかし父はそれで熊井さんの才能を認めたのだろう。熊井さんは希望通り、1954年の民芸映画、『愛』(井上靖原作、若杉光夫監督)にサード助監督としてつくことになった。

 

   ところで昨年(2012年)の秋、ぼくは関川秀雄監督の『ひろしま』が狛江で上映されることを新聞で知って見に行った。映画は圧巻だった。アメリカによる原爆投下直後の広島市内の凄まじい惨状が延々と続く。思わず目をそむけたくなるほどだが、原爆がもたらした恐ろしい実態をまず直視することが大事なのだと映画は主張する。広島市の当時の人口35万人のうちの3分の1以上もの人命を、その時ただ一発の爆弾が奪ったのだ。そして、八木保太郎の脚本によるドラマが見る者をひきつけて止まない。なんといってもラストシーンがすごい。原爆投下から7年後の広島。教会の鐘が絶え間なく鳴り続ける広場へ向かい、エノラ・ゲイが投下目標としたT字橋の上を、原爆への怒りと平和への想いを込めた市民たちの行列が延々と続く。このモブシーンに9万人もの広島市民がエキストラとして参加したそうだが、さらに圧倒的なシーンがラストを盛り上げる。原爆で命を奪われた月丘夢路扮する教師と生徒たちや登場人物たちの親兄弟子供たち等、無数の人びとが川からあるいは地面から甦り、この大行進に力強く加わるのだ。甦った死者たちは無言だが、戦争だけはもう二度としてはいけないと叫んでいるように見える。平和憲法を変えようなどということはとんでもないことだと叫んでいるように見える。

 

   冒頭に書いたように、『ひろしま』は熊井監督が初めて助監督として参加した作品である。それで今は亡き熊井監督の代わりに、奥様でポプリ研究家の熊井明子さんが映画の後、熊井啓監督とこの作品について講演された。会の終了後、ぼくは明子夫人から『ひろしま』の上映プロデューサーである小林一平さんを紹介された。小林一平さんは彼の父上である小林太平氏が『ひろしま』のチーフ助監督だったことから、約半世紀も倉庫に眠っていたこの映画を探し出して、全国各地で精力的に上映活動をしていられる方で、その様子は各新聞が大きく報道している。ところが奇遇というのか、熊井監督を父に紹介したのは小林一平氏の父上の小林太平氏であることが、父の追悼本『大塚和 映画と人生』(えいけいあい企画 1992年)に寄せられた熊井監督の一文からわかった。

   映画『ひろしま』は、父と熊井さんとの出会いのきっかけを作った方のご子息との出会いも用意してくれていたような気がする。

  

   熊井さんが助監督についた『愛』が完成した1954年、日活が映画製作を再開し助監督を募集したので、熊井さんは受験して日活に入社した。その翌年、父もまた民芸在籍のまま日活の契約プロデューサーになったので、熊井さんと父は再び同じ製作現場で働くことになった。こうしてふたりの一本目の作品『日本列島』(1965年)の実現へ向かって長い時間が流れて行くことになる。次回は、『日本列島』についてご紹介する。(大塚 汎)


 

 

☆2013年6月17日

熊井啓監督(1930年-2007年)と大塚 和(1915年-1990年)

① はじめに

熊井啓監督の代表作の一本である『地の群れ』(えるふプロダクション・ATG提携)は、公開された1970年度の主要な映画賞を数多く受賞して興行的にも成功を収め、父大塚和の代表作の一本ともなった。今後、上映を含め、DVD制作にも努めていきたい。

『地の群れ』は熊井監督のなかでも特にぼくが好きな作品である。演出が傑出していて、鈴木瑞穂、松本典子、宇野重吉、北林谷栄、奈良岡朋子ほか二人の新人の演技もみな光っていて真に迫る。墨谷尚之のカメラによるモノクロ、スタンダードの世界に描き出された映像美はまさに一級のアートだと思う。
父が他界して3年後の1993年、父の郷里である高知で「大塚和祭」をしてくださるというお話があった。主催者は、地元で自主上映の活動を長年続けていられる田辺浩三氏で、希望する上映作品を問われて真っ先にあげたのが『地の群れ』であった。その年の4月30日、市内のあたご劇場において行われた「大塚和祭」には、熊井啓監督とえるふプロダクションの取締役武田靖氏もぼくにご同行くださり、上映会は成功裏に終えることができた。翌年再び田辺氏によって黒木和雄監督の出席のもとに第2回が開催されたが、この「大塚和祭」については項を改めてまた書きたい。

熊井啓監督と父とは約40年にわたる交流のなかで、この『地の群れ』(1970年)のほかに2本、合計3本の映画を一緒に創った。最初の作品は1965年の日活作品『日本列島』で、2作目が『地の群れ』。そして3作目は父の遺作ともなった1986年の『海と毒薬』(「海と毒薬」製作委員会)である。熊井監督は、大塚和さんと「たてた企画は20本は超えるだろう」と著書「映画と深い河」(近代文藝社 1996年)のなかで書かれているが、父とはそのうち3本しか実現しなかったことになる。しかし、一本の映画が生れるまでにはその過程でもう一本別の映画が出来るほどドラマティックで面白い話がある場合も多い。父は製作日誌などじつに簡単なメモしか残さなかったが、幸い熊井監督は何冊もの著書のなかで克明な記録を残されているので、それらの貴重なご本も参考にさせて頂きながら、大塚和と熊井啓の残した3本の映画について、この項で少しずつ書いていきたいと思う。次回は、熊井啓監督と父の出会いについてご紹介する。(大塚 汎)